磨くは原石、精製は油脂

SixTONESについてのごくごく個人的な話をします。

【特大感情】やっぱり『僕僕』が素晴らしい件を語る。

 書かねばならぬと強く思い、これを取り急ぎ書いています。今さっき丁度テレビで、樹がジュースを吐いていました。笑

 

 さて、ちゃぶ台の下で伸びをしていた猫の前足を意図せずもにょりと足蹴にしてしまった所ですが(ごめん!とちゃぶ台の下を覗き込んだら猫は寝ぼけた顔でこちらをちらりと見やった後、丸くなって寝た)、本題へ参ります。

 CDTVライブ!ライブ!でパフォーマンスした『僕が僕じゃないみたいだ』、貴方はご覧になりましたか?

 自分はリアルタイム視聴したのですが…。

 

 どえらい良かった!

 

 同曲のフルサイズを初解禁という事もあり、自分は喧嘩直前のサイの様に鼻息を荒くし期待でパンパンの鳩胸を携えテレビの前で待機していたわけですが…。

 

 すんごく良かった!

 

 

 今回はそんな超神回を刮目した故に生まれた特大感情を語りに参りました。ご興味ありましたらお付き合い下さい。

 

 

 

まえがき

 本記事は毎度お馴染みの『個人的考察』ではなく、『個人的特大感情』をそのまま語る様な内容になりそうです。(下書きも準備も何もせぬまま書き始めているので、自分でもどんな内容になるのか全く見当がつかないんですね。笑)

 ほぼ間違いなく理路整然とした感じは無いと思われますので、どうぞ宜しくお願い致します。

 また、自分は音楽に関する専門家等では一切ありません。ただのSixTONESファンであり、音楽好きの声フェチです。以下の内容は筆者個人の考えに過ぎません。何卒ご了承下さい。

 何か間違っていましたら、(出来れば優しく)教えて頂けると助かります。

 

 

やはり『僕僕』が素晴らしい件を語りたい

 タイトルにもあります『僕僕』とは、来る2月17日に発売される我が推しSixTONESのNEWシングル『僕が僕じゃないみたいだ』の略称です。以下に『僕僕』と出て来た場合はそう思って下さい。

 YouTubeに公式MVが出ているので、こちらに貼っておきます。


SixTONES - 僕が僕じゃないみたいだ (Music Video) [YouTube Ver.]

 

 この曲が如何に素晴らしいかを、今回はCDTVライブ!ライブ! 2月15日放送回で披露されたパフォーマンスを通して語っていきます。

 

 

『僕僕』によるSixTONESの音楽的挑戦

 そもそも自分は、新曲『僕が僕じゃないみたいだ』がSixTONESにとってかなり挑戦的な楽曲だと思っています。

 一体どんな挑戦なのか。

 端的に申し上げますと、『SixTONESのボーカル面における音楽的挑戦』です。

 

 まず本曲は、『全編ダンス無し・1人1本のスタンドマイク』といった、正に歌う為の環境をバチバチに整えた楽曲であるとも考えられます。

 

 これを踏まえて、自分の頭にはとある仮説が浮かびました。

 それは、この楽曲を世に放ちプロモーション活動する事によって、『SixTONESは歌えるグループですよ』と世に知らしめる目的があるのだろうな、という仮説です。

 テレビサイズの時点で分かっていた通り、僕僕はどう見ても『今のSixTONESメンバー6人それぞれの歌』に焦点を当てています。

 歌における分かりやすい見せ場が全員に振られた歌割がその最たる例です。ソロパート分量が増量しましたよね。

 加えてハモリも多く、その難易度は既存曲よりも高いと思われます。ハモる組み合わせのパターンも多く、オクターブハモ・和音系ハモの両方が多発。多分だけど、3声ハモも結構あるように聴こえました。

(もし3声ハモじゃなかったとしても、ハーモニーを素人にそう聴こえさせるだけの厚みは確実にあるってことです。どっちみち凄い。)

 つまり、彼等はこの曲で明らかに『SixTONESには歌えるメンバーがいる』ことではなく、『SixTONESは歌える"グループ"である』ことを見せに来ているわけです。

 実際、そんな楽曲である僕僕のプロモーション活動開始以来、『SixTONES歌上手いな』と再実感した方も多かったのではないでしょうか?少なくとも自分は日々再実感しています。

(余談ですが、先程霜降りミキXITが終わり、そろそろ腰が爆発しそうだったのでちゃぶ台から机に移動しました。グリコのカフェオレがお供。苦いコーヒーが飲めないので、コーヒー牛乳みたいな甘いやつでコーヒーは摂取する派。)

 

 そして更に、上記の仮説からもう1つ思ったことがあります。

 『僕僕って、彼等にとって大きな試練の様な曲だったのでは?』と。

 元々より自分は、楽曲『僕が僕じゃないみたいだ』に対してある種のスパルタな印象を持っており、且つこの曲はSixTONESの音楽活動において(その大小はさておき)ターニングポイントとなり得るのではないかと考えていました。

 

SixTONESメンバーはプレッシャーかもしれないけど、自分はこのシングルのプロモーション期間前後でSixTONES全体のボーカルスキルがかなり変わるとふんでいます。 くぅー!楽しみ!!!

【世界を見据える六人衆】SixTONESの生配信ライブon eSTについて好き放題語る。 - 磨くは原石、精製は油脂

 

 まあそもそも、SixTONESに限らず作品を創る方々は、作品を世に出す度に多かれ少なかれプレッシャーを感じているはずです。

 ファンは気に入ってくれるだろうか。ファンではない人も良いと思ってくれるだろうか。業界にはどう見えているんだろうか。売れるだろうか。そして演者の場合、この作品をちゃんと上手くモノにする事が出来るのだろうか。

 想像するだけで胃がキリキリします。

 加えて、先述の通り、僕僕は歌う為の環境を整えた楽曲です。少なくともダンスで体力を消耗する事はありません。その裏を返せば、『歌唱に関して誤魔化しも言い訳も通用しない環境でパフォーマンスしなくてはいけない楽曲である』ということになります。

 スタンドマイクを目の前にして、自らの歌声から逃げも隠れも出来ないんです。あんなに難しい曲なのに。いや、あの曲だからこそ。

 彼等の背負っているプレッシャー、それを乗り越える為に積み重ねた努力。それらが凄まじいものである事は、我々にも容易に想像出来ます。作品を世に出すならば誰もが通らねばならぬ道なのでしょうが、決して誰にでも出来る事ではありません。

 

 以上の内容を総合してみると、やはり『僕が僕じゃないみたいだ』はSixTONESにとっての音楽的挑戦だと思わざるを得ないのです。

 

 

CDTVライブ!ライブ!でのパフォーマンス

 …と考えていた矢先、大きな知らせが舞い込みました。

 『僕僕をフルサイズでやる事が決まった!!!!!!』

 猛烈にワクワクしました。何てったって、SixTONESの音楽的挑戦の全貌が明かされるわけですからね。

 そんで、全てを見届けた自分は見事に心頭をやられて本記事冒頭の様な状態になってしまい、『何としてもこの特大感情を書かねばならぬ』と思い立って今に至ります。

(余談ですが、少し前から心身共に不摂生&不健康期間に突入し、最近ちったあマシになったかね~くらいの所まで戻って来たのですが、今回の僕僕フルサイズパフォーマンスを身体にカチ込んだお陰でモリモリとブログを書けるくらいに回復しました。ありがとうSixTONES、ありがとうSONY、ありがとうCDTV。とりあえずTBSの感想フォームにお礼と感想を送りつけたよね。)

(更に余談ですが、そういう事情(?!)で、おジェスの記事がまだ仕上がっていません。お待ち頂いている方がいらっしゃったらごめんなさい。何卒大目に見て頂けますと幸いです。んなもん言い訳だろ!と言われればそれまでですが。苦笑)

 

 では、CDTVライブ!ライブ!の僕僕について具体的に喋りましょうかね。以降はネタバレにもなるのでご注意下さい。

 

 まず、僕僕のパフォーマンスが始まってすぐに目が行ったのは、衣装とデザインされた歌詞字幕でした。お色直しとる!何この字幕めちゃくちゃ良いやんけ!

 歌が進むに連れて、各メンバーの良さや進化がいつもに増して伝わってくる事に気が付きます。てかカメラワーク良いな。…もしかしてこれは神回かも?

 来るぞ来るぞ、2番が来るぞ!!!!

 ……?!?!!良過ぎんか。全員良過ぎ!

 

 というわけで、ちょっとここからはメンバー毎に1人ずつ語らせて下さい。特大感情の壁打ちになると思います。テレビの前にいる時そのままのノリで行きますんで。

(てかテレビの前で書こうかな。録画観ながら書くわちょっと待ってて~。…よっこらせ、はい移動しました。あ、猫起こしちゃったよごめん。テレビつけました、よし再生しましょうかね。猫はまた寝たっぽいです。)

 

 

ジェシー

 髪の毛ネイビーになってた。天使なんか?

 今回の僕僕ジェシー、総じて『ひかり』でした。切ない歌詞を歌っているのに、良い意味でネガティブが一切見当たらなかった。多幸感がありましたね。彼は幸せな恋の結末が見えていそう。幸せな顔と声色で歌うのよ。くう!

 ずっと楽しそうなのも良かったなぁ。ちょいちょいギター弾いとるやん。一番踊っていた気がする。北斗のオクターブ下やる直前にくるって回ったの好き。

 そして2番の特大ゆごじぇ!!!

 あれはグッと来ました。ジェシーの慈悲よ。干したばかりの布団やん。(例え)

 彼はスポットライトを独り占め出来そうなのにしないんですよね。何者なんだろう。何かもう恐ろしいんですよね、神がかっていて。

 全編通して、余裕がありましたね。ジェシーってそこが凄いと思う。余裕があるから生まれるジェシー色。ひかりだなぁ。

 最高だった!

 

 

京本大我

 パフォーマンス関係ないけど、打ち合わせのきょもさん、メッシュ特濃オレンジですやん。似合う!

 彼は完全にロックシンガーの佇まいでしたね。ブレないねぇそういうとこ好きです。(SUPER BEAVERさんと間接的に共演出来て良かったね!)

 自分はハモリパートのきょもさんが特に凄かったと思う。彼、これまではどちらかと言うと『ハモられる側』のことが多かったじゃないですか。でも今回は『ハモる側』の分量が相当多い。しかも相手も編成もかなり変わる。これめちゃ大変だったと思うんですけど、その分きょもさんの引き出しを増やしたとも思うんです。

 『ボーカルグループの1人』のきょもさんが観れて嬉しかった。

 アウトロのフェイク、MV音源と違った!良いやん!そのフェイクパターンも好き。

 最高だった!

 

 

松村北斗

 まつむライアー!冒頭やっとんな!!儚く揺らしとんな!!!素敵!

 2番入った辺りから、自分には彼が透君に見えていました。うん。本当の自分を見つけたんだね。どの自分が本物かは自分自身で決めて良いって気が付いたのかもしれない。何はともあれ、透君の幸せを祈っているよ。

 …といった気持ちになりました。

 本当に映画が楽しみです。ライアー×ライアーの物語を吸った後の『僕が僕じゃないみたいだ』はどんな味がするんだろう。繰り返しになりますが、楽しみです。

 最高だった!

 映画『ライアー×ライアー』は2月19日に公開

 

 

髙地優吾

 髙地無双巻き起こしてたね。鳥肌立ったよ。本当に最高だった。

 まず先に言っとく、スパイラルパーマ風のヘアスタイルすんごい似合ってるよ。衣装もよく似合ってた。カッコ良かったよ。

 テレビサイズでも披露していたサビのソロパートは勿論最高に良かった。

 全てを放り投げてでも書くべきは2番のサビ前よ。これはもう髙地の為のパートだね。本当に素晴らしかった。上手いとか下手とかそんなの超越してました。観ていた人全員の琴線に触れたと思う。このパートの部分音源だけで売られていても全然迷いなく買う。はちゃめちゃに良かった。

 間違いなく髙地パートの存在が楽曲の説得力を爆増させているのだと確信しました。

 今回の放送の彼を観れた事が1番の収穫かもしれん。

 最高だった!

 

 

森本慎太郎

 こちらも天使かな?新しい髪色似合ってる!

 慎太郎は観る度に安定感が増しているのよ。安定したきらめきは心強いよね。眩いきらめきを常に発生させる事が出来る人なんてそうそういないから。彼の声が入ると、音の層から途端にぶわわーっ!ってキラキラの粉が舞う様に見える。

 『Hey, Ho』と『君といる時の自分が好き"なんだ"』で入ってくる慎太郎の作用は特に凄い。涙出そうになる。一面眩い。

 僕僕は、慎太郎の声にきらめきがあるからポップスになるんだと思っています。

 あと、この曲の歌詞を表現している慎太郎が相当に好きです。なんて美しいんだろう。『眩くて美しい寂しさ』がこの世に存在する事を、自分は僕僕を歌う慎太郎を見て知りました。ありがとう。

 最高だった!

 

 

田中樹

 百発百中の男が今回もそこに居ました。

 樹の万能さが全編通して遺憾なく発揮されていましたね~!スマートなハモリを連発。彼って出来ない事あるんだろうか?(いや、無い。)

 そして、言及せねば罰が当たるぞ『2Aの田中』!!!!!!

 貴方もご覧になりましたよね、『自分を飾って誤魔化した』田中樹を。

 あそこで彼がいつも身に着けているアクセサリーを目に留めた時、自分は全身の血が止まりました。強かな奴だよ!なんてこった!!!

(EXITのお2人へのリアクションで1番はしゃいでいたのが可愛い。完全にダチを街で見かけて声かける時のテンション感。)

 最高だった!

 

 

 

 さて、そんなこんなでCDTVライブ!ライブ!の『僕が僕じゃないみたいだ』放送後、全国各地で『僕僕良い良いの祭』が盛大に催されていた最中、SixTONESYouTubeチャンネルに1本の動画が投稿されました。

 その動画は、本記事冒頭に貼っ付けた動画の『双子の片割れ』の様な動画で、歌詞の字幕がついていました。そしてその字幕は、上述放送回で流れたデザイン字幕とほぼ同じものだったという手の込みよう!SONY、愛しているよ!!!

 記念としてその動画も貼っておきます。


SixTONES - 僕が僕じゃないみたいだ (”Another” Music Video) [YouTube Ver.]

 

 

あとがき

 今回SixTONESがフルサイズで初解禁した『僕が僕じゃないみたいだ』のパフォーマンスは、末代まで語り継ぐべきステージだと思います。

 だから、自分はこれ程の『書きたい衝動』に駆られたのでしょう。

 

 要するに、彼等は相当難しいはずの『音楽的挑戦』をやり遂げたのです。

 

 SixTONESの4thシングル『僕が僕じゃないみたいだ』は、2月17日にいよいよ発売されます。とにかく音源が手に入るのが楽しみで仕方がありません。

 彼等の勇敢な挑戦を、自分はこの目と耳にしかと焼き付ける所存です。

 

 勇者6人衆のSixTONESに、心からの敬意と感謝と愛を込めて。

 

 ここまで読んで下さった猛者の貴方、本当にありがとうございます。

 

 彼等と彼等のことを大好きな人が、それぞれにとって幸せでありますように。

【盛大な序章】ジェシーについての音楽的考察が書きにくい件を語る。

 

 いやぁ…参りました…参っております…。

 

 ジェシーの音楽的考察が全っっ然書けん!

 

 本当にびっくりするくらい書けん。

 と言うか、めちゃくちゃ書きにくい。

 

 今回は、『ジェシーについての音楽的考察が書きにくい件』について語りに来ました。

 まあちょっと騙されたと思って、是非お付き合い下さい。

 

 

まえがき

 まず最初に大声で言っておきたいのですが、この記事は『ジェシーを遠慮無く褒めちぎる』意図の記事です。

 当ブログでは毎度お馴染みである、そこそこボリューミーな筆者個人の見解と考察を通して、いつも通りにSixTONESメンバーを腹の底から大絶賛しようという企みでございます。

(と、それに乗じて筆者が喋りたい事も沢山喋っています。先に言っときます。今回はいつもに増して余談がめちゃくちゃ多いです。笑)

 一見タイトルが不穏な様にも思えますが、間違っても彼を貶す様な内容の記事ではありませんので、どうぞご安心下さい。

 

 現在、当ブログ『磨くは原石、精製は油脂』では、SixTONESメンバーの音楽的素晴らしさを1人ずつたんまり語り散らかす記事がシリーズ化しています。

 こーち、樹、慎太郎、きょも、北斗の5人は既にその記事を上げており、残す所あとジェシーのみとなりました。

 本記事は『音楽的素晴らしさを語るシリーズのジェシー回』に入る前の『盛大な序章』として書いていますので、その様なつもりで読んで頂けると良いかと存じます。

 これを読んで頂いた後に、本題のジェシー回を読んで頂くとより楽しめるかもしれません。

(そうなる様に本題の記事も書くつもりです。)

 

ジェシーの音楽的素晴らしさを語った、本題の記事はこちら↓  ご興味あれば是非。

shea-butter-six.hatenablog.com

 

 

 尚、これ以降の内容は、完全なる筆者の個人的主観に基づいた考察となります。

 自分は、音楽の専門家ではありません。

 早い話が、ただの音楽好きで声フェチの人間なのです。

 その点、何卒ご了承下さい。

 何か間違えていましたら、(出来れば優しく)教えて頂けると助かります。どうぞ宜しくお願い致します。

 

何故ジェシーの音楽的考察が書きにくい?

ジェシー編を書こうとしている筆者の現状

 書きにくいと喚いてばかりではしょうがありませんから、『具体的にどのくらい書けていないのか』をお伝えしますね。

 

 その時々の気分にもよりますが、基本的に自分は記事を本格的に書き始める前に、ザーッとメモみたいなものを下書きする事が多いです。(厳密には言いたい事を一旦そのまま吐き出している感じで、言葉遣いや日本語としての正しさを完全無視した感じの下書きです。叩き案って言った方が分かりやすいかもしれん。)

 下書き時点での文字数は、大抵800〜1000字くらいになります。下書きありで書く時はいつもこんな感じで、それをあーだこーだやると、毎度お馴染みのあれになるわけです。

 そんじゃあ、例のジェシー記事の下書きはどうなってるんだ?って話なんですけども。

 驚くなかれ…現在下書きは、132字!!!!!!

 

 え?!?!書けてなさ過ぎん?!!??

 ってなわけで、そんな筆者の困った状況(という形で姿を現したジェシーの凄さ)について是非お聞き願いたいのです。さあ参りましょう!

 

 

ジェシーの音楽的考察が難しい理由

 何故ジェシーは考察が書きにくいのか?

 それは、『ジェシーが音楽的に考察しにくい人種だから』です。

 

 いやいやいやいや『人種』て!そんなん全然理由になっとらんわい!!

 

 仰る通り、貴方の仰る通りです。

 その『人種』とは何なのかについてを、次の項でがっつり詳しく説明します。

 

 

③音楽的に考察しにくい『天才』の話

 そもそも、SixTONES云々に関係なく、自分にとって『音楽的に考察しにくい』方々が、この世には一定数いらっしゃいます。

 もう少し言うと、音楽的に考察して欲しい!と言われた時に、『むむむ出来ればこの人は勘弁してくれぇ、考察したくないし、上手く出来る自信も無いよぅ…。』と自分は思ってしまう方々です。

 

 その方々は一体どんな人達なのか。

 思うに、その人達が共通しているのは『音楽の神様に著しく愛されている』ことです。

 『神様コーポレーション芸術部音楽課とのコネクトが異常に強い』とも言えるでしょう。

(この際、『神は存在するのかどうか』についてはシカトします。今回は『神はいる前提』が無いと話が進まないので笑、各々の考え方もあるでしょうが、細かい所は見逃して下さい…!あくまでもイメージの話なのでね!ぶっちゃけ私もこの問題の正解は分からん!しゃあなし!)

 

 一口に『音楽の神様から著しく愛されている』と言っても、その愛の形は様々であると自分は考えています。

 

 いつくか例を挙げてみましょうかね。多分その方が分かりやすいと思うので。

 

 まずは、音楽の神様から『寵愛』されている様に見える方々。

 DREAMS COME TRUE吉田美和さん、KinKi Kids堂本剛くんの御二方は、完全にこのタイプだと自分は認識しています。

(以前観た関ジャムのドリカム特集でも、中村正人さんが『吉田には音楽の神様がいるみたい』的なことを仰っていました。中村さん曰く、吉田さんは曲と歌詞が一緒に降りてくるそう。実際ドリカムには数多の名曲がありますし、神とのコネクトも強いイメージが湧きます。)

(余談ですが、堂本剛くんのバンドENDRECHERIが相当気になっています。元々ブラックミュージックやその系譜を取り入れた音楽は物心ついた時からずっと好きなので、これは好きなやつやん!と思っている。音源買おうかな。)

(更に余談ですが、KinKi Kidsの『KANZAI BOYA』がはちゃめちゃに好きです。この曲についてブログ1本余裕で書けるくらい大好き。テレビでパフォーマンスされているのを観て『!』となり、すぐに初回盤Aと通常盤をポチりました。KinKi Kidsは悲しく美しいメロディアスな曲をやる印象が強かったのですが、まさかのファンク!テレビでも生バンド!衣装可愛い!と大興奮した思い出。MVも、おまけ映像の光一くんのダンスも、各Remixも全部最高でアガる。後から知ったのですが、剛くんの音楽ルーツはファンクらしい。しかもバンドやってんのか!最高かよ!…となり、今に至ります。)

 

 次に、『音楽の神様が囲いたがっているのを上手くはぐらかしつつ、結局しっかり愛されている』様に見える方々。

 このタイプだと思われるのが、TOKIO長瀬智也さんです。

 長瀬さんは、音楽の神様が寵愛したがっているのだけれども、それにはなびかないイメージがあります。神様が自分に惚れているのをちゃんと知った上で動いている感じ。『神様をちゃんと惚れさせておくけど、四六時中構う訳じゃない。俺は好きにするよ。』、みたいな。

 『さすらいの旅人』っぽいんですよね。ヒッピーとか、旅芸人とか、移動式遊園地とかに近い感覚があります。

 多分、長瀬さんの場合、音楽の神様と会う事になっても、その待ち合わせ場所に普段着(と言うかその時に着たい好きな服)で行きそうな気がします。特別に正装はしないと思う。

(余談ですが、自分はTOKIOの楽曲では『リリック』『東京ドライブ』『雨傘』の3曲が大好きです。あと、長瀬さんが神木隆之介さんとW主演をされていた映画『TOO YOUNG TO DIE! 若くして死ぬ』はマジ最高。Amazon prime videoで何の気無しにこれを観た自分を褒めてやりたい。劇中歌が全部良いんだこれがまた。)

 

 更に、音楽の神様から『友情』として愛されていそうな方もいらっしゃいます。

 このパターンの方だと自分が考えているのが、玉置浩二さん。

(2020年末の紅白での『田園』、凄かった…!)

 絶対に音楽の神様とのコネクトがしっかりある族の方だと思うのですが、どうもこの方の場合は、寵愛と言うより友情に近い気がするんですよ。音楽の神様の親友みたいな感じで。

 神様と限りなく対等な関係に近いのでは?と思っています。愛とか恋よりドライだけど、それよりもっと近くガッチリと強固な繋がり。

 玉置さんって、神様と何回か飲みに行った事がありそうです。それも、暖簾のある店で。

(自分は玉置浩二さんや安全地帯に詳しくはありませんが、それでもテレビで見かけたり、ちょこちょこ音源を聴いたりして、前述の様なイメージが湧きました。ベタだけど、井上陽水さんと一緒に歌われている『夏の終わりのハーモニー』が好き。言わずと知れた名曲ですよね。)

 

 …っと、例としてはこんなものでしょうか。

 イメージ伝わりましたかね…?

(勿論、他にも音楽の神様から著しく愛されていそうな方々は沢山いらっしゃいます。自分が思う分かりやすい例として、今回は上記の方々を挙げさせて頂きました。)

 

 この類の方々は、巷では大抵、『天才』と呼ばれています。

 『天からの才能』故に『天才』ですから、そう呼ばれるのも必然なのかもしれません。

(ここで勘違いしてはいけないのが、『天才』と呼ばれる方々は皆往々にして凄まじい努力をされているということ。この『天才の努力』については、後の方でしっかりと言及します。)

 

 そんで、SixTONESジェシーも同様に、この手の人種、即ち『音楽の神様から著しく愛されている』タイプの『天才』である、と自分は考えているのです。

 

 

④何故『天才』は考察しにくいのか

 では、何故に『天才』についての考察はやりにくいのでしょうか?

 

 そもそも『考察』という作業を行う為には、対象となる人やものについて『自分流の分析』や『自分の持つ知識への置き換え』等の方法を使って、一度その対象を噛み砕き、飲み込む必要があります。

(少なくとも自分はその段階を必ず踏みます。)

 しかし、天才達の所業は、凡人にとって『噛み砕き飲み込む』のが非常に難しい。

 この人のやっている事が素晴らしく、この人自身が凄い事も痛いほど分かる。でも、その素晴らしさや凄さの実体が掴み辛く、仮に掴めたとしてもそれをどう扱って良いのか分からないのです。

 何処から手をつけ、何処が毒で、何処から口に含み、どのくらい噛めば噛み砕けるのか、そしてそれは飲み込めるものなのか。これらに関してほぼ見当がつかないんですね。

 魚のフグと似ています。特別な訓練をした人にしか、多くの人々にその身(天才の所業)を安全に食べさせる事は出来ないわけです。

(余談ですが、自分は、この『フグを捌ける人』の存在こそ天才を世に放つ鍵なのだと思っています。音楽に限らず、大抵の天才には相方の様な存在がいて、その相方が天才の所業を世に届けるべく奔走している事が多い気がします。そうやって天才の所業を世に伝える『フグを捌く人』もまた、別の意味での天才なのでしょう。)

 

 世に言われる『天才の考えを凡人は理解出来ぬ論』の肝はここにある、と自分は考えます。

 

 まぁこれらの事を考えりゃ言わずもがな、素人には考察しにくいに決まっていますよね…。

(てことはつまり、私って今とんでもない事に手を出そうとしてますよね?やばいなこれ。)

 

 

ジェシーはどんな『天才』なのか

 さて、今回の主役であるジェシーは、一体どんな『天才』なのか。

 上で述べた『音楽の神様からの愛され方』を使って説明しましょう。

 

 ジェシーの場合は、『音楽の神様から寵愛されている』タイプだと考えています。(奇しくも堂本剛くんと同じですね!)

 彼は、その愛をしっかりと謙虚に受け止め続けている様に見えます。その佇まいから、彼と神様との間に、親しきながらもきちんとした礼儀と上下関係が存在する様に思えるのです。

 更に、音楽の神様は昔から(もしかするとジェシーが生まれた時から)、彼のことを相当可愛がっていると思います。あくまでも自分の勝手なイメージに過ぎませんが…。

 故に、ジェシーは音楽の神様から『寵愛』されているだろうな、感じるわけです。

 

 ジェシーは歌っている時、どこまでを意図的にやっていて、どこから感覚的にやっているのか、こちら側からは全く見えません。少なくとも自分は今後も一生分からないと思う。

 勿論、全てが勘じゃないだろうけど、『これは常人には出来ないよ?!(褒めてる)』とか、『おおそう来るか!!(大褒めしてる)』みたいな予測不可能且つ素晴らしい事象が、彼は非常に多い。正に天才の所業なのです。

 実際、ジェシーには音楽に関する色々な場面で、『神がかっている』『神が宿る』と言える瞬間が、結構な頻度であります。

(分かりやすいのが、少クラで完全生歌披露をした事で話題になった『"Laugh" In the Life』や、同じく少クラで披露した『S.I.X』でのジェシーです。文字通り『神がかって』いたと思う。)

 

 ここで声高に言っておきたいのが、ジェシーの凄い所は、音楽の神様からの寵愛を受け『続けて』いる点です。

 これまた諸説あるでしょうが、自分は神様にも『自我』があると思っています。(むしろ人間より神様の方が自我が強いと思っている。自分はギリシャ神話が好きなので、その影響でより一層そう思うのかもしれない。)

 つまり、神様は愛したいと思った相手しか愛してくれないわけです。飽きたらそこでさようなら、気が変わる事もあるかもしれない。

 

 ジェシーに限らず、今我々が見ている天才達は皆、その期間に多少の差はあれども『天才で在り続けている』方々ばかりですよね。

 それが、どれほど難しく苦しいことか。

 『あいつは天才だから』『次は何をやってくれるんだろう』という大きな期待や羨望の眼差しによるプレッシャーをはじめ、『天才が天才で在り続ける』事の苦悩は、きっと天才本人にしか知り得ないものなのです。

 それに伴い言わずもがな、凄まじい努力もしているでしょう。天才は、努力が何かを成し得る為に必須の手段である事を本能的に理解しているのかもしれません。(又は、努力を努力とも思っていない場合もある。どっちみち凄い。)

 そして、それらが我々の予想を遥かに超える厳しさであることは、容易に想像が出来ます。

 

 あくまでも空想に過ぎない話ですが(神様が出てきた辺りからずっと空想だけど)、おそらくその苦悩を受け続けている人を、神様は特別に愛したいと思うのかもしれません。

 

 更に、天才が天才で在り続ける事によって、その天才は『錬成』されます。

 ジェシーは今の時点でも間違いなく天才ですが、その天才が錬成されたら、いよいよ大変な事になります。

 彼が表舞台に立ち続ける限り、『錬成』もされ続けますから、もうそれはそれはすんごい事になるでしょうね…!

 

 

⑥結論

 以上の内容から分かる通りの『天才』であるが故に、ジェシーの音楽的考察はすこぶる書きにくいのです。

 

 ちゃんと書きますよ?書きますいつも通り。声の話をして、本人の特性を話して、グループでの音楽的ポジションの話もしますよ?

 しますけど、書きにくい事実は変わらないんですよね。笑笑

 

 

あとがき 

 そんなこんなで、只今『ジェシーの音楽的素晴らしさを語る。』記事を絶賛書いてる最中でございます。

 仕上がるのがいつになるかは、自分でも分かりません!まぁ未来の自分が何とかしてくれる事を願っています。頼んだよ〜。苦笑

 

 聴衆の理解出来る範疇を最高に良い意味で超えているジェシーに、心からの敬意と感謝と愛を込めて。

 

 ここまで読んで下さった猛者の貴方も、本当にありがとうございます。

 

 彼と彼を大好きな人が、それぞれにとって幸せでありますように。

【日本から世界へ】松村北斗の音楽的素晴らしさを語る。

 我が推しのアイドルグループ、SixTONES

 現在、彼等は4thシングル《僕が僕じゃないみたいだ》の発売を2月17日に控え、いよいよプロモーション活動を本格化しようとしています。(既に1月29日のMステでこの曲をパフォーマンスする事が決定しており、筆者もワクワクが止まりません。うほほーい!)

 

 それに伴い、各種メディアにドンドコ出始めているメンバーがいます。

 

 彼の名は、松村北斗

 

 それもそのはず、来たる2月19日に公開される映画『ライアー×ライアー』にて、北斗は今をときめきまくっている女優の森七菜さんと共にW主演を務めるのです!めでたい!!

(マスクして 

 劇場行こう 

  ライアー×ライアー ……筆者、心の川柳)

 前述の4thシングル曲である通称《僕僕》は、この映画の主題歌として書き下ろされた楽曲ですから、当然シングルと映画のプロモーションは同時進行で行われるでしょう。

 現に北斗は、表紙を含め、どえらい数の雑誌掲載が決まっています。

(誇張ではなく本当に"どえらい"冊数です。20冊以上はあるんじゃないか?しかも多分また追加されそうですよね。ほえー北斗働いてんなぁ。)

 更には、先週スタートしたばかりの、日テレ系列で毎週土曜夜10時から放送されている、ドラマ『レッドアイズ』にもレギュラー出演しており、彼が多忙を極めている事は容易に想像がつきます。

(チーム戦のサスペンス系がお好きな方はきっとハマる。アクションもあって面白いです。何よりメインキャラの布陣が最高。TVerでも無料配信されていますので是非。I am watching them!)

 

 今の所、筆者というよりも、ひたすら北斗の出演作品を宣伝する人になっていますが笑、お察しの通り、彼は映像作品の俳優として特に高く評価されています。

 

 『それに加えて松村北斗は音楽的にも素晴らしいんだぞ』という話をしに、今回は遠路はるばるやって参りました。

 最後まで、何卒。

 

 

 

まえがき(という名の保険)

 自分は、音楽の専門家でもなければ、音楽を仕事にしているわけでもありません。

 分かりやすく言えば、ただの音楽好きで、ちょっと声フェチなだけの人です。

 ですから、これ以降の内容は、完全なる個人的主観と考察となります。

 その点、ご理解頂けますと幸いです。

 何か間違っていましたら、(出来れば優しく)教えて下さい。宜しくお願い致します。

(この項はお家芸になりつつありますね…笑笑)

 

 

松村北斗の音楽的素晴らしさ

 早速、本題へと参りましょう。

 松村北斗の音楽的素晴らしさは、大きく分けて以下の3つであると考えております。

 

 ①声そのもの(特に声のウェット感)

 

 ②歌詞との親和性

 

 ③SixTONESにおける音楽的ポジション

 

 順に解説(という名の考察)して行きます。

 

 

①声そのもの(特に声のウェット感)

 北斗の素の声の最たる特徴は、『声のウェット感』でしょう。

 それもただのウェット感ではなく、『声の湿度がめちゃくちゃ高い』のです。

 

 北斗が普段喋っている時の声は、温度感は基本低め、柔らかい感じはありつつ、その時々による良い意味での独特な『揺らぎ』と『深さ』が感じられます。

 歌い始めると、その声は『温度感』、『揺らぎ』、『深さ』と全要素において変化が現れますが、高い湿度は常に保たれたまま。

 

 例えるならば、『水』です。

 それも、『一定量溜まった状態の水』。

 彼の声の水は曲によって、夏の浅い小川になったり、梅雨のアスファルトの上の水溜りになったり、冬の冷たい池になったりします。時には、滅多に人の寄り付かない底無し沼の様な雰囲気を出す事もありますよね。

 

 北斗の声の大きな魅力はまだまだあります。

 中でも特筆したいのが、『鼻濁音』です。

 そもそも『鼻濁音』とは、ざっくり言うと『濁音っぽく且つ鼻に抜いた発音』の事です。『鼻にかかった感じの声』と言った方が分かりやすいかもしれません。

 鼻濁音は、実際の濁音(特にガ行)は勿論、濁点の付いていない音でも発生します。特にナ行は、色々なアーティストさんが鼻濁音で歌われているのをしょっちゅう耳にします。

(実際に鼻濁音は歌唱テクニックとしても認識されているっぽいです。ググると出てきました。)

(余談ですが、素敵な鼻濁音を聴きたい時におすすめなのは山口百恵さん。特に、『さよならの向う側』は随所に魅惑の鼻濁音が散りばめられており、うっとりする素晴らしさです。数年前、三浦祐太朗さん(山口百恵さんの息子さん)がこの曲をテレビ番組でカバーされていたのですが、その際インタビューで『百恵さんから何か歌へのアドバイスは貰いましたか?』という質問に対し、『この曲は鼻濁音を上手く使うと良いよ、と言われました。』的な事を仰っていました。とりあえず、良き鼻濁音を聴きたくば百恵ちゃんを聴け!と言っておきたい。)

 

 北斗は、素の声の時点で既に、ちょっと鼻にかかった感じがあります。

 その要素が歌う事によって増幅され、曲中に魅力的な鼻濁音を連発。

 鼻濁音によって生まれるニュアンスは、加減が難しく、下手するとネタっぽくなってしまうのですが、北斗はしっかりと音楽的ニュアンスとして鼻濁音を成立させています。

(Telephone・光る、兆し・ってあなた辺りが分かりやすい。ナ行に注目して聴くと良いかも。)

 

 この鼻濁音が、彼の声の『ウェット感』により拍車をかけており、それが巷で言われる『色気のある歌声』に繋がっていると思われます。

 

 ちなみに、この場合の『色気』とは、具体的には『静的引力』の事です。

 個人的イメージなのですが、北斗の歌声って『黙ってじっとこちらを見つめている』感じがあります。

 決して北斗側から近付いてきたり、力尽くで引きずり込んだりはしない。でも、彼の歌声を聴くと、いつの間にかこちら側から歩み寄りたくなる。もしくは、『吸い寄せられる』と言った方が近いかもしれません。

 そういう意味での、『静的引力』なのです。

 北斗の歌声は、その『静的引力』が強い。

 

 前に上げた京本大我の音楽的素晴らしさを書いた別記事でも語り散らかしているのですが、きょもの歌声の場合は、『能動的引力』です。

 きょも側から能動的に手を差し伸べてきて、ガッツリアプローチしてくる感覚があります。

 

きょもの歌声の能動的引力について書いた記事はこちら↓ ご興味ありましたら是非。

shea-butter-six.hatenablog.com

 

 対して、北斗の歌声は『能動感』と言うよりも、聴く側からしてみれば『ただそこに居るだけで引き寄せられてしまう』感覚が強いです。

 だからなのか、彼の歌声を聴くと、良い意味で酔いそうになるんですよ。『陶酔』出来る。

 この現象は、歌声に静的引力があるからこそ起こせると自分は考えています。

 

 北斗担の皆様が、松村北斗の存在自体に陶酔気味な傾向がある(様に自分には見える)理由の1つは、この『歌声の静的引力』だと思われます。

 北斗のあの感じがドンピシャでハマったら、こちら側は多分もう陶酔するしか術が無いんですよね〜しゃあねぇあれは酔っちゃうよね〜。

(彼の歌声が静的引力MAX時の個人的イメージは、ラム酒又はブランデーです。甘め且つ度数も高め。無論酔うしかない。)

 

 

②歌詞との親和性

 北斗はおそらく、パフォーマンス時にめちゃくちゃ歌詞と親和しています。

 

 今回は、そう思っている裏付け(という名の個人的見解)として、『声と日本語の共鳴』『言葉との距離感』の2点に焦点を絞り、考察を展開していきます。

 

 

声と日本語の共鳴

 まず、声を大にして言いたい。

 松村北斗は素の声の時点から、声と日本語との共鳴がはちゃめちゃに素晴らしいです。

 

 この件を喋る為に、自分はこちらに見参したと言っても過言ではありません。

 

 そもそも『日本語』は、『ウェットな質感の言語』とも考えられます。

 

 現代語においては、挨拶の『こんにちは』と『さようなら』が分かりやすいでしょう。

 『こんにちは』は、漢字にすると『今日は』となります。これは『今日は如何お過ごしですか?』とか『今日は御機嫌如何ですか?』とかの略なんですね。だから『こんにち"わ"』ではなく『こんにち"は"』となるわけです。

 『さようなら』の場合は、漢字にすると『左様なら』。これは『左様ならば、これにて失礼致します。』とか『左様ならば、また会いましょう。』とかの略です。

(もしかしたら別の説もあるかもしれません。あくまでも筆者の知っていた内容と見解だと思って頂けますと幸いです。)

 これらの挨拶に共通するのは、『厳密な意味が定められておらず、その時々によって微妙に意味が変化する事もある』という事。

 つまり、婉曲的な表現なんですね。

 

 この遠回しな感じを、『湿度あるなぁ』と自分は思っているんです。

 短くさらりと『さようなら』を言ったとしても、それに含まれている意味が『また会いたいですね』なのか、『お元気でお過ごし下さい』なのか、はたまた『もう2度と会う事はないでしょう』なのかは、時と場合により全然違う。

 言ってしまえば、『左様ならば私がどう思っているのか察して下さいね』って事です。

 めちゃくちゃ湿度感じません?私だけか?!

 しかも、我々にとっての『挨拶』でこの湿度ですから、日本語における高い湿度感は極めて『日常的なもの』だと考えられます。

 

 他にもあります。

 遡りまして平安時代、人々は和歌でやり取りをしていました。和歌なんざ婉曲表現の極みですよね。含蓄を噛み締めるしかない。

 ロマンや雰囲気をフル無視しますが、ぶっちゃけサクッと言えば良いんですよ。『あんたのこと頭おかしくなりそうなくらいに好きなんだが。いっそ死んだろか?』(物騒)みたいにさ!

 いやいや、平安時代の方々はそんな直接的な言い方はしません。ご丁寧に短くして、察して貰いに行くんですね。(決してディスってませんからね!和歌とか俳句って良いよ!自由律俳句とかも好きですし。一応保険かけときます…笑)

玉の緒よ 絶えなば絶えね ながらへば

忍ぶることの 弱りもぞする

  ー『新古今和歌集』より 式子内親王

 この短歌、全国各地の教科書に載っているんじゃないかな。めっちゃ有名ですよね。

 んで、上の短歌で式子内親王姉さんが仰りたかったのって、超ざっっっくり言うと前述した『あんたのこと頭〜中略〜死んだろか?』って事なんですよ。

(厳密には、『私の命ィ!さっさと息絶えて!!これ以上生きてると恋心を隠しておけそうにないからさ!!頼むわ!!!』みたいな感じです。式子内親王姉さんは結婚や恋愛が出来ない高貴な御身分だったので、好きな人が出来ても耐えるしかなかった故に詠まれた和歌らしい。)

 …湿度感半端なくないすか?この短さに込められた念が!ウェット!!

 

 そんなベリーウェットな日本語を、素の声質が既にベリーウェットな松村北斗が歌おうものなら。そんなん合わんわけがねぇだろ。

 違う要素(日本語と声)の同じ特徴が掛け合わさる事によって共鳴し、ウェット感とそれに伴う静的引力がより増強されるわけです。

 大変な事になりそう(勿論最高に良い意味で)だと思いませんか!!!!!!

 

 松村北斗の歌う日本語詞が爆裂に魅力的である要因の1つは、上記で述べた『声と日本語との共鳴』にあります。

 あの声質の時点で日本語との相性が最高である事が分かりきってるんです。素晴らしい。

(余談ですが、日本語にはドライな側面も勿論あります。江戸のべらんめぇ口調なんかが分かりやすい。江戸時代そのものに対して、カラリと乾いた印象をお持ちの方もいらっしゃるでしょう。しかしながら、江戸時代にも湿度高めな文化はありました。近松門左衛門の有名作品である、人形浄瑠璃曽根崎心中』は正にウェット感満載です。何てったってタイトルに『心中』ですからね。カラリのカの字もございません。そもそも人形浄瑠璃は人間が人として姿を見せない『人形劇』ですから、その表現方法自体が一種の婉曲表現だと解釈する事も可能です。)

(重ねて余談になりますが、『北斗が理想のデートプランを聞かれた際に「人形浄瑠璃を観た後に心中」と答えた』という、古来より界隈では超有名爆弾エピソードとして名高いお話があります。この爆弾発言が完全に『曽根崎心中』を元にしたであろう事は、既知の件でしょう。本件がきっかけでハートを撃ち抜かれた方々も少なくないらしい。そりゃ陶酔するよね…。)

 

 

言葉との距離感

 次に、松村北斗は言葉との距離感が相当近いと思われます。

 言い換えるならば、『北斗は言葉に染められやすく、言葉も北斗に染められやすい』様に自分には見えるんですね。

 

 実際、Twitter上で、『北斗はパフォーマンス中、曲の世界で芝居している』といった旨のツイートを目にする事も少なくありません。

(NAVIGATORの時は特に頻繁に見かけた。私も同じ事を思いました。)

 

 北斗の歌は、歌詞が『北斗本人の言葉』に聴こえる事が少なくありません。

 今の所、SixTONESが出している音源の中で松村北斗作詞のものは無いです。

 つまり、それらの提供された歌詞は、北斗にとっては本来『他人の言葉』であるはずです。

 でも、何故か北斗が歌うと、他人の言葉に聴こえないんですよ。まるで彼自身から出た言葉かの様に聴こえる事が結構あります。

 それは、『歌詞が北斗に染められて、北斗も歌詞に染まっているからではなかろうか』と自分は思ってましてですね。

(光る、兆しの冒頭やCurtain Callの冒頭はこの現象が分かりやすいです。特にCurtain Callは、北斗が自分で書いたト書きを読んでいるのかと思った。間違いなくそれは『歌』なのですが、確実に歌だけの範疇ではなかったと思う。)

 

 筆者の体感なのですが、北斗のパートって、『言葉』の形で残りやすいんです。

 自分は訳あって基本的に歌詞カードを読まない様にしているのですが、聴いている最中に空で歌詞を覚えてしまう箇所は、北斗のパートである事が多い気がします。

 彼のパートは、1、2回聴いて覚えてしまっている事も少なくないんですよ。

(先述したCurtain Callの冒頭は、2020/12/06にYouTube上で行われた《SixTONES broadcaST「666 1ST liSTening」》の時点でしっかり身体に残りました。発売までの間、何度脳内再生したか分かりません。あとシンプルに曲も好き。)

 

 何はともあれ、松村北斗のパートは『歌詞』が頭や身体にものすんごい残るわけです。

 彼の歌う歌詞が、脳裏にべったりと張り付いて離れない事も多い。

 

 あくまでも推測の域を出ない話として聞いて頂きたいのですが、おそらく北斗は歌に限らず『口から発する言葉から影響を受けやすい』のではないか、と自分は考えています。

 それと同時に、『口から発する言葉へ影響を与える』力も持っていそうだ、とも思います。

 北斗と言葉とが、お互いに侵食し合っている様に見えるんですよね。

 台詞が台詞に聞こえなかったり、歌詞が歌詞に聴こえなかったりする事も多々あります。彼の口から発されると、台詞や歌詞が『本物』に寄っている様に思えるんです。『元々から北斗自身の発言ですよ』みたいに感じられる。特に日本語詞だとそんな風に聞こえがちです。不思議。

(この北斗の特徴が魅力的に大発揮されているのが《ってあなた》です。あんまりに最高。)

 

 ここまで述べてきた考察を通して、自分が行き着いたのは、『松村北斗は言葉との距離感が相当近いんだな』という結論でした。

 

 彼の歌う日本語詞が魅力的である要因の中のもう1つは、ほぼ間違いなくこの『言葉との距離感が圧倒的に近い事』だと思われます。

 その『言葉』には当然、日本語以外の言語も含まれます。故に、北斗が英語詞を歌う時にもそれは活かされているはずです。

 母国語である日本語と比べてしまうと、英語との距離感はそこまで近くはないのかもしれません。しかしながら、そもそも北斗は『言葉そのもの』や『言語』に対する感性がずば抜けている(そうじゃないと母国語とは言え北斗レベルの近い距離感ではいられない)ので、『何語であるか』はそこまでネックではないでしょう。

 北斗と英語との距離感が、日本語とそう変わらない所にまで追い付くのは、正直時間の問題だと自分は思っています。

 ここ1年間で、彼は確実に英語との距離感を縮めています。英語でインタビューされる機会もありましたし、全英詞や英詞の配分が多い曲も増えた事で、北斗の中の英語の位置付けは少なからず近い方へと変化しているはずです。

 加えて、彼が英詞を歌っている曲を聴けば、その凄まじい進化は明らかですよね。

 SixTONESの1stアルバム《1ST》は、言わずもがな曲数が多く、それ以前のシングル収録曲と比べても英詞の配分が爆増えしています。このアルバムでの北斗の歌いこなしぶりは、とにかく目を見張るものがありました。めちゃくちゃ努力したんだろうなぁ。

 

 

北斗と歌詞の親和性

 以上の2点から、松村北斗は『歌詞との親和性が高い』と考えられます。

 

 声と日本語との共鳴。

 本人と言葉との非常に近い距離感。

 

 この2点を伏せ持っているのは、かなり大きな強みです。自分自身で書いておらずとも、目の前にある歌詞と親和出来るなんて最強じゃないですか!

 

 

SixTONESにおける音楽的ポジション

 これ以降は、以上に書いてきました①と②の内容を踏まえ、それらをSixTONESというグループにどう還元するかの話をしましょう。

 

 まず、北斗はその声質で、SixTONESの歌声に文字通り『深さ』を出しています。

 低音域を担当するだけでなく、『声質の幅』としても下の成分を増強する事で、グループの声に説得力が加わり、深みが出ます。

 

 更に、松村北斗の歌声の持つ『静的引力』によって、楽曲の中に『静的引力によるハイライトやアクセント』を用意する事も出来ます。

 静かにじっとこちらを見据える様な静的引力に反応する人々は殊更、彼の歌声が確実に引っ掛かりとなるでしょう。

 北斗が冒頭やBメロ頭等の、楽曲展開切り替え地点を頻繁に任される理由はこれです。何か歌にフックが欲しい時、彼の声は重宝されているに違いありません。

 

 また、歌詞との親和性が高いメンバーがいる事によって、SixTONESの音楽には『音』に加えて『歌詞』の良さがより大きくなります。

 北斗が歌詞を魅力的に歌う事で、楽曲はより多角的に輝きます。その輝きにグッとくる人は少なくないはずです。

 

 そして何より、声を大にして言いたいのが、松村北斗は『SixTONESを日本発信のアイドルたらしめる』という大きな役割を担っているという事!!!!!!

 海外製の音楽がお好きな方は分かると思いますが、世界各国の音楽はそれぞれ違う良さがあり、中でも『その国の言語の美しさ』は、音楽を通して他国の人々に伝わる事も多いのです。

 英語がリズム感とグルーヴ感に満ちている事も、韓国語がキュートさと力強さを伏せ持つ発音を持っている事も、スペイン語が滑らかでお洒落なニュアンスである事も、中国語が子音母音共に種類に富んでおり耳心地が楽しい事も、自分は全て音楽を通して知りました。

 今後益々、SixTONESの音楽は世界中の人々の元へ届く事になります。

 その時にSixTONESの音楽を通して、彼等の持つ音楽性や楽曲の素晴らしさだけでなく、『日本語の美しさ』や『J-POPの良さ』に気が付いてくれる海外の方がいるかもしれない。

 そのスイッチを歌声で押すのが、他でもない松村北斗であると自分は考えてしまうのです。

 

 世界中であのグループは一体何者だ?!となった時、SixTONESが日本発である事を音楽で伝えるには、北斗の日本語を美しく歌える強みが活きるはず。

 自分は、そう思っています。

 

 

あとがき

 SixTONESは、世界を見据えています。

 

 日本の地を出発点にして、見据えた先へ飛び立つ時、松村北斗の存在は必ずや大きな推進力となるでしょう。

 

 SixTONESが、日本発の6人組であること。

 それを世界中に知らしめる日は、そう遠くないうちにやって来るのかもしれません。

 

 日本から羽ばたくアイドル松村北斗に、心からの敬意と感謝と愛を込めて。

 

 ここまで読んで下さった猛者にも、心より感謝申し上げます。

 

 彼と彼を大好きな人が、それぞれにとって幸せでありますように。

【歌の職人】京本大我の音楽的素晴らしさを語る。

 以前、自分は別の記事で、配信ライブon eSTで見受けられた『京本大我の歌声の進化』について相当語り散らかしました。

 

 しかし、あれだけ長々と語っても尚、彼はとにかく音楽的な話題に事欠きません。

 

 2021/01/17のSixTONESANN内のジングルオンエアバトルで、崎山蒼志さんの《五月雨》をきょもがギター弾き語りでカバーした音源が放送され、話題になりましたね。

 ラジオジングルとしての機能を果たす為に定められているであろう『名前と番組名を言う』ルールを完全に無視し、『尺一杯ただただ弾き語るのみ』という暴挙に出た大我坊ちゃん。

 本来であれば、ルールをガン無視した坊ちゃんの御戯れにツッコむべきなのでしょう。

 ですが、その弾き語りのクオリティが余りに高く、自分はすっかりツッコミの人格を捨て去っていました。ギター上手くなってたな…。

 

 彼は、常に進化し続けています。

 

 それを痛感した自分は思いました。

 この際、京本大我の音楽的素晴らしさを今一度、根本から語り散らかそうじゃねぇか。

 

 …とそんなわけで、本記事は音楽的素晴らしさを語るシリーズのきょも回でございます。

 よろしければ最後までお付き合い下さい。

 

 

 

まえがき(という名の保険)

 筆者は音楽に関しての専門性を持ち合わせた者ではありません。

 端的に言えば、ただの音楽好きです。あと声フェチです。

 故に、この記事の内容は完全なる個人的考察となります。予めご了承下さい。

 もし何か間違えていましたら、(出来れば優しく)教えて頂けると助かります。どうぞ宜しくお願い致します。

 

 

京本大我の音楽的素晴らしさ

 早速参りましょう。

 京本大我の音楽的素晴らしさは、大きく分けて以下の3つと考えます。

 

 ①歌声の華

 

 ②プレーヤースキル

 

 ③SixTONESにおける音楽的ポジション

 

 順に解説(という名の考察)をして行きます。

 

 

①歌声の華

 京本大我は、間違いなく『歌声の持つ引力が強い』です。

 この場合の『引力』とは、『能動的引力』を意味します。

 こちら側に手を差し伸べ掴んだ途端、決して離さず、『こっちへ来い!』と引きずり込む様な引力。気がついたら境界線を跨いでしまっており、逃げ出せなくなっている。

 そんな引力を、きょもの歌声は持っているんじゃないか。

 …自分はそう思っています。

 

 では、具体的に説明していきます。

 

歌声による初聴殺し

 まず、きょもの歌声は『初聴殺しが得意』だと思われます。(表現が物騒ですみません)

 

 初っ端から1つ、思い出話を。

 まだSixTONESが、『SixTONES』として地上波の音楽番組に出演する機会が少なかったデビュー前の話です。(デビュー前からスト担の貴方は是非思い返してみて欲しい。)

 音楽番組や音楽特番での初パフォーマンス直後、ひとしきり思いの丈をツイートし終えたスト担がよくやる事がありました。

 それは、TwitterSixTONESのパフォーマンスについてパブサすること!

 その際、我々が検索欄に入れた鉄板ワードの1つが、『ストーンズ 金髪』といったきょもを示すワード。

 実際、そのワードはパブサで引っ掛かりやすく、きょもはSixTONES初見初聴の方々から頻繁に『あの金髪の人歌上手い!』と歌声を褒められるツイートをされていました。

 そんなツイートを見つけてはニヤニヤし、そっといいねを押して、何事も無かったかの様にその場を立ち去ったものです。

(何なら自分は今でもパブサすることがある。)

 

 この様な初聴殺し現象を起こす為には、文字通り『歌声で聴衆の心を引き付ける』必要があります。

 長い音楽特番でお目当てのアーティストが出ていない時間帯、多くの視聴者は『なんとなく』テレビをつけているはずです。スマホを触っていたり、他の作業をしている人もいるでしょう。その様な人々を『?!』と思わせ、もう1度テレビ画面に注目させるには、画面から逸らされている目ではなく、常に開かれている『耳』に訴えかけねばなりません。

 

 パブサで引っ掛かるのは即ち、この初聴殺しを毎度毎度やっていたという事です。

 したがって、きょもは間違いなく『歌声の引力が強い』と言えます。

 

 

歌声に熱烈な固定客がつきやすい

 次に、きょもの歌声は、『熱烈な固定客がつきやすい』歌声であると考えられます。

 

 彼の歌声は、ある層に対して、ほぼ確実にクリーンヒットする声質と歌い方等の特徴を持っています。少し深めの潤った声質、ハイトーンボイス、しっかりとかけられたビブラート…。

 もうお気付きかもしれませんね。

 その『ある層』とは、率直に申し上げますと『バンギャの血』を持つ方々のことです。

 

 これを読んでいる貴方がご存知無い場合もあると思いますので、『バンギャ』について軽く説明しておきます。

 『バンギャ』とは、すんごい簡単にざっくり言うと、『V系(ヴィジュアル系)のバンドを熱く推している人々』のことを表す言葉です。

(その定義については諸説あります。少なくとも自分は上記の様に認識しています。)

(V系バンドの例を挙げるならば、Imitation  Rainを提供して下さったYOSHIKIさんがリーダーを務めるX JAPANBUCK-TICKGLAYLUNA SEAhydeさんがボーカルを務めるL'Arc~en~Ciel(ラルク)が有名所でしょう。あとは『女々しくて』のゴールデンボンバーも(多分)その系譜と思われます。バンドメンバーが目周りを中心に世界観のあるメイクをしているのが共通した特徴です。因みに、タレントのDAIGOさんが組まれているバンドもV系っぽい。歌い方的にも多分V系のそれです。)

(声を大にして言っておきたいのが、自分はV系に関して全く詳しくありません。上記のバンドくらいしかほぼ知らないレベルです。どうかお手柔らかに…!)

 

 この『バンギャ』の方々は、個人差はあれども、推しのバンドを半ば『崇拝』や『狂信』にも近い形で応援している節があります。

 とにかく応援の仕方や推しバンドへ向けられる愛が濃厚で熱いんですね。それもある種『バンギャの血』なのかもしれません。

 

 そして、これは自分が最近知った事なのですが、『V系』というジャンル、もっと言うとその系譜・血脈はかなり広がっており、その広さ故に消費者人口もかなり多いようなのです。

 つまり、バンギャ含むV系好きの人口は、パンピーが思っとるより全然多いということ。

 

 この様な方々(しかも決して数は少なくない)に刺さる歌声を持っているのならば、必然的に熱いファン即ち『熱烈な固定客』もつきやすいと考えられます。

 そんで、きょもはその手の方々に刺さる歌声なのでは?と自分は思っているのです。

 

 では何故、京本大我の歌声はバンギャに刺さるのか。

 その理由こそが、他でもない『歌声の引力』だと自分は思っています。

 

 V系と呼ばれるバンドのボーカルの方々の声を想像してみて下さい。

 皆さん、とにかく歌声の能動的引力が強いんですよ。自分達の世界に引きずり込む力が半端なく強い。

 

 更に、V系に限らず、『崇拝』『狂信』に近い形の応援をされがちなミュージシャンは、どうやら『歌声の能動的引力が相当強い』という共通点がありそうだなと自分は思ってまして。

 端的に言えば、『歌声の引力がめっちゃ強いと教祖化しやすい』説ですね。『〇〇様』と呼ばれがちor呼びたくなるミュージシャンは何故か皆歌声の引力が強いんですよ。

(椎名林檎女史は確実にそのタイプだと自分は思います。自分は林檎女史が好きなのですが、呼び捨てにするのはやはり気が向きません。)

(余談ですが、『声の能動的引力』を思う存分体感したい方には、椎名林檎女史と先述したBUCK-TICKのボーカル櫻井敦司さんとがコラボされている『駆け落ち者』がおすすめ。すんごいです。これを聴いたらもうずっと頭から離れない。曲の中から出られなくなる、正に圧倒的な『歌声の引力』を目の当たりに出来ます。)

 

 その様な能動的引力に惹かれる方々に、歌声が刺さるならば。

 京本大我の『歌声の引力』が、生半可な強さではないことは自明でしょう。

 

 きょも担の方々が、やや狂信的な傾向にある(様に自分には見える)のも、この引力の事を考えれば納得出来ちゃうんですよね〜。

 彼の歌が刺さっちゃった人は、もう2度と離して貰えないと思います。

(そもそも自分は離れる気もない。笑)

 

 

歌声の『華』とは

 ここまできょもの歌声が持つ引力について語って参りましたが、この『引力がある』というのは『華がある』と言い換える事が出来ると自分は考えています。

 

 『華』とは何ぞ?という問いはとても難しい問いではあります。

 しかし、少なくともその中に、上記の様な『とても強い引力』は含まれると思うのです。

 よって、『京本大我の歌声には華がある』と自分は声を大にして言いたい。

 

 京本大我の歌声には華があるんだぞ!!!

(…ほんとに大声で言ったよこの人←)

 

 

②プレーヤースキル

 先に言っておかねばならぬ事があります。

 ここからの内容には、以前上げた別の記事(本記事冒頭でも触れたやつ)の内容と重複する点が多いです。何卒お許しを。

 おそらく、以前の記事の方が簡単に書いてあると思うので、そちらと読み比べてみても面白いかもしれません。

(…そんな猛者がいらっしゃるかはさておき)

 

↓以前上げたきょもに関する記事はこちら↓

 ご興味ありましたら是非。

shea-butter-six.hatenablog.com

 

 さて、既に貴方は気になっておられるかもしれません。

 『他のメンバーの時は①で声そのものについて話すのに、今回は歌声の事しか言っていないじゃないか!』と。

 鋭い!流石ですね。

 実は今回、音楽的な話をする上で、きょもの素の声に言及しなかった、いや、『言及出来なかった』のには、ちゃんと理由があります。

 

 それは、京本大我の『歌声』が、良い意味で素の声から遠い位置にあるからです。

 

 勿論、きょもの素の声(普段喋っている時)には、魅力的な特徴がいくつかあります。

 高音域の声である事、潤いがある事、滑舌が良い事、等々。

 しかし、これらの特徴は、きょもの『歌声』を前にすると、ただの『要素』や『前提』に過ぎないものとなります。

 上の発言は、断じて彼の素の声を貶しているわけではありません。

 この発言の意図は、『京本大我の圧倒的プレーヤースキル(後述します)の高さが故に、素の声からは想像出来ないレベルの事象が彼の歌声では展開されている』ということです。『きょもの意図によって、歌声が作り込まれている』とも言えます。

 

 これを先程自分は、『彼の歌声が良い意味で素の声から遠い』と言ったんですね。

 

 まず始めに、『プレーヤースキル』について話しましょう。

 歌とは、ある意味で特殊な演奏法です。

 楽器であれば、基本的に人がプレーヤーで、楽器は楽器自体が担当します。当たり前の話ですが、楽器とプレーヤーは別々ですよね。

 一方、歌では、プレーヤーも楽器も人。しかも全て同じ人が1人で担当します。

 しかし、実際の演奏中(歌唱中)にやる事は、楽器の演奏とほぼ変わりません。

 楽器のメンテナンスをする様に身体のメンテナンスが必要ですし、それが壊れてしまうと演奏(歌唱)出来ない。より良い音(歌声)を出したければ楽器(身体)そのものを改造するか、演奏技術を上げるしかない。…等々。

 つまり、歌という演奏法は楽器と同様、楽器(身体)自体のスペックと、プレーヤーのスペックの両方がお互い密接に関わっており、それらの両方によって演奏(歌唱)の違いが出てくるというわけです。

 そんで、この話で出て来た『プレーヤー』としてのスキルが、京本大我は異様に高いという事を声高に喋るべく、このブログを自分は書いていると言っても過言ではありません。

 

 それでは、具体的にきょものプレーヤースキルの高さを語って参ります。

 

 『プレーヤースキル』とカタカナでそれっぽく書いておりますが、これは平たく言うと『声の操作能力』の事です。『こう歌いたいな』と思った通りに歌う能力、とも言えます。

 上であたかも普通の事かの様にサラッと書きましたが、冷静になるとこれってめちゃくちゃ難しい事なんですよ。

 ちょっと考えてみて欲しいんですけど、何かをやる時に、何でもイメージ通り簡単にポンと出来るなら、誰も人生苦労しませんよね?

 んな事出来るんやったら、この世にいる全員の夢や目標は漏れなく叶いますもん。出来ちゃうなら理想通り行きますからね。

 でも現実はそうじゃない。

 イメージ通りやる為には、程度に差はあれど努力をしなければなりません。

 

 そしておそらく(と言いつつもほぼ確実に)、京本大我は上記の様な『自分のイメージ通りに歌う為の努力』を、血反吐を吐くくらいやっていると思います。多分リアルに吐いたりもしてると思う。

 

 そう思わざるを得ないくらいに、京本大我は音楽に関しての全てを『意図的に』やっていそうなのです。(個人的にはそう確信している)

 

 きょもは歌う時、全ての要素を完全に『意図して』やっています。

 ビブラートをする時は、必ず『ここでビブラートするぞ』と思ってビブラートしているし、何かしらのニュアンスをつける時も必ず、『ここでこのニュアンスをこうやってつけるぞ』と思ってその通りにやっているはずです。少なくとも自分にはそう見えます。

 

 そうじゃないと、特にあの再現性の高さは生み出せないんですよ。

 

 きょもの声の操作能力の高さが最も分かりやすいのが、歌の『再現性の高さ』だと自分は思っています。

 毎回同じ様に、同じニュアンスで、同じ高いクオリティで歌う。これがどれほど難しいか。

(彼の歌の再現性については以前のブログでも言及しております。もしご興味あれば②の始めに貼ったリンクからどうぞ。)

 巷で言われる『口から音源』をやっておられるのは、皆さんこの『歌の再現性』に優れている方々です。(福山雅治さんは正にこれ。)

 

 加えて凄いのが、きょもは歌を試行錯誤する研究欲もお持ちなので、どこかの時点でこちらの方が良いと判断した場合、その部分の歌い方を変えやがるんですよね〜!!(言い方)

 結局、それも意図的に『こうしよう』と思った事をやっているわけですからね。意図してそれが出来るのが凄い。

 

 別の記事で慎太郎の音楽的素晴らしさに対する考察を繰り広げた際に、『慎太郎は音楽的運動神経とも呼べる野生的感覚が凄過ぎる』と書きました。

 一方、きょもの場合は、音楽に関してはかなり『理性的』です。隅々まで計算され尽くされている。しかも、その計算をしっかり具現化しているんですね。だから凄い。

 

↓慎太郎の野生的感覚を書いた記事はこちら↓

 ご興味あればぜひ。

shea-butter-six.hatenablog.com

 

 

 とりあえず、京本大我は歌声の操作能力、プレーヤースキルが高過ぎます。

 これは基本的に練習で鍛えられるスキルなので、きょもが吐くほど練習しとるだろうという予想(の皮を被せた確信)が持てるのです。

 

 作品にもよりますが、クラシックやミュージカルは、上記の様な声の操作を極端に高める芸術(訓練し様式美を完璧に表現し切る事が美徳とされる)でもある(と私は考えている)ので、彼にミュージカルの仕事が継続して来ているのも、『そりゃそうだ案件』なのかもしれません。

 

 少々本筋から外れるのですが、前に妹(自分よりも耳が良くて、このブログで話している様な音楽の話が説明無くとも難なく通じるライトなSixTONESファン)と、きょもについて話した事がありました。

 『きょもはパフォーマンスを全部分かってやってるよね』と意見が一致し盛り上がっていた所、何気なく妹がボソッとこう言ったんです。

 『だからモノマネが出来るんよ。』

 ……お前!!!!天才か?!本当に仰る通りだわ!!妹あんためちゃくちゃ的を得とるやんけ、姉は感動したぞ!!!!!!

 

 うちの妹が言う通り、声の操作能力が高くないと声マネや歌モノマネは出来ないんですよ。

  巷で囁かれていた『モノマネすると歌が上手くなる』理論はここがミソだったわけです。

 

 とにかく、京本大我は、音楽的に鍛えられる箇所は全て鍛えていると思います。

 

 凄いよ。ほんと、プロ中のプロだよ。

 

 

SixTONESにおける音楽的ポジション

 ここからは①と②の内容を、どうSixTONESというグループに還元していくかについて話していきます。

 

 まず、京本大我の歌声の華は、間違いなくteam SixTONESの人員を増やすきっかけになります。早い話が、『新規ファン獲得力が高い』ってことです。

(何を隠そう、毎度初聴殺しが炸裂する激強引力ですからね!)

 しかも、きょもが獲得した新規ファンは熱いSixTONESファンになってくれそうな方が多い傾向にあると既に予想が立っています。

 実際、きょも担かどうかに関係無く、スト担の中でも彼の歌声がきっかけでSixTONESの存在を気にし始めた方を自分はよく見かけます。

 SixTONESは世界を見据えているグループです。その『世界』には、当然日本も含まれていますから、日本の音楽番組に出たり、日本で流通する音源を出したりする中で『新しい熱きファン』がteam SixTONESに加わってくれる事は願ったり叶ったりなわけです。

 

 更に、京本大我レベルの圧倒的なプレーヤースキルを持つメンバーがいる事が、グループにどれだけの利益をもたらすかは、正直計り知れません。

 例えば、ゲームのパーティ内にめっちゃプレーヤースキルが高い人がいたら、これは勝ち確だなってなりますよね。

 声の操作能力があんだけ高い人がメンバーにいたら、グループは勝ち確なんですよ。

 つまり、 SixTONESは勝ち確なんです。

 京本大我がいるから。

 

 操作能力が高いので、きょもは音楽的にメインもフォローもハイライトもローライトも全てその技術でこなせてしまいます。

 メインやハイライトをやる時は、彼の持ち前の歌声の華がより活きてくるので、文字通り曲に華を添える事が出来る。

 しかも、ここ最近のきょもさんは特に、音楽的手数や声のバリエーション等が増えていますから、新種の音楽的攻撃パターンが次から次へと出て来る。

 

 もはや職人の域です。歌の職人。

 

 京本大我の存在は、SixTONESの音楽に多大なる影響と恩恵を与えているんですね。すご。

 

 

あとがき

 繰り返しになりますが、京本大我のとんでもない凄さは、これらの内容を『意図的に』やっている事。

 そして、それらを実現する為の技術を『努力して』得た事にあります。

 

 自分はしょっちゅう、『何とかしてきょもに労いの意を伝えたい』と真剣に考えるのですが、未だその為の上手い方法を見つけられていません。

 結局、『SixTONESの音楽を素直に楽しむ』という方法が、京本大我の努力に報いる最善の手段だと思うのです。

 

 どうか、どうか、彼に沢山の愛と素敵な音楽が降り注いで欲しい。

 

 別記事でも全く同じ事を書きましたが、きょもの事を思うと、自分はどうしてもここに行き着いてしまいます。

 

 歌の職人である京本大我に、心からの敬意と感謝と愛を込めて。

 

 ここまで読んで下さった猛者の貴方、本当にありがとうございます。

 

 彼と彼を大好きな人が、それぞれにとって幸せでありますように。

 

【野生】森本慎太郎の音楽的素晴らしさを語る。

 メンバーやファンからは勿論、行く先々でいつも皆に愛されている、森本慎太郎

 

 メンバー曰く『子供のファンが1番多い』との話も大納得、SixTONESの素直で真っ直ぐな愛すべき末っ子です。

 

 しかし、ステージに上がるとその姿は一変。

 

 高い身体能力に定評があり、その身体から繰り出されるダンスやアクロバットは、我々の目を釘付けにさせます。

 また、大人なこなれ感がありながらも光を放つパフォーマンスで、会場全体を魅了する事も少なくありません。

 

 今回は、そんなギャップを持つ森本慎太郎の音楽的素晴らしさを語ります。

 

 

 

まえがき(という名の保険)

 これ以降の内容は、完全なる個人的見解と考察になります。

 尚、筆者は音楽的な専門性や分厚い知識を持ち合わせている類の人間では一切ありません。

 言ってしまえば、そこら辺にいるただの音楽好きです。あと声フェチです。

 その点、どうぞご了承ください。

 間違っている事がありましたら、(出来れば優しく)教えて頂けると助かります。

(初めて声フェチをブログで暴露した時は多少どぎまぎしたのですが、今や何とも思わなくなってきました。一切の抵抗無くナチュラルにフェチを暴露出来るのは良いものですね。笑)

 

 

森本慎太郎の音楽的素晴らしさ

 では、早速本題へ参りましょう。

 

 慎太郎の音楽的素晴らしさは、大きく分けて以下の3つだと考えます。

 

 ①声そのもの(特に声の核の位置)

 

 ②音楽的運動神経

 

 ③SixTONESにおける音楽的ポジション

 

 順に解説(という名の考察)して行きます。

 

 

①声そのもの(特に声の核の位置)

 慎太郎の声には沢山の魅力がありますが、その中でも最も特徴的なのが『声の核の位置』だと自分は考えています。

 

 『声の核』とは読んで字の如く『声のコアの部分』のことで、自分が勝手にそう呼んでいるオリジナルの呼称です。笑

(巷にある表現で1番近いのは『声の重心』でしょうか。)

 当然、声の核の位置によって、その声が周囲に与えるイメージや印象が変わってきます。特に、その位置が『高いか低いか』の要素は歌声に影響が出やすいと自分は思っています。

 

 ちなみに、この『声の核の位置の高低』は『音程』とは全く別物なので要注意。

 例えば、音程は低めだが核の位置が高めの方だと嵐の松本潤さん。音楽番組での歌やバラエティ番組で喋っている声を聴く限り、声そのものの音程は低めに感じられます。

 一方、音程は高めだが核の位置が低い方ならSuperflyのボーカルである越智志帆さんが分かりやすいです。思うに『高い音を歌っているのにそんな高そうには聞こえない』方々は、このタイプが多い気がします。

(まあ越智志帆さんの場合は、その圧倒的歌唱力による所も大きな理由ではありますが…。)

 

 さて、本題の慎太郎の場合ですが、彼の声の核の位置は『高め』です。

 

 彼の声は、SixTONESファンの間でよく『キャラメルボイス』と例えられますよね。

 実はこの例えは、上記の観点からしても非常に言い得て妙なんですよね〜。

 『キャラメルの甘さ』を想像してみて欲しいのですが、あの甘さは口の中に広がって割とすぐに『口の上の方(喉に近い部分)』を刺激する感覚がありませんか。

 つまり、キャラメルの甘さも『核の位置が高め』と言えるんです。

 

 更に、『声の核が高い』ことは即ち、『声の構成成分の分布位置が高い』ことを表します。

(核の周りに成分が密集する為、『核の位置が高い』=『成分の分布位置も高い』となる。)

 自分が考えるに、この『声の成分分布位置が高い』ことによって出せる印象の代表格は、『初々しさ』『動的エネルギー』『はつらつとした感じ』『キラキラした青春』といった様な『若さと光』を感じさせる印象です。

(余談ですが、声優さんの『声の年齢感』の調節は、声の音程は勿論、上記の『声の核の位置』も変える事で行なっているように思います。自分がこりゃすげぇな!と思ったのが、『ヲタクに恋は難しい』で花子役をされていた沢城みゆきさん。コミックス7巻特装版のOADで、社会人時代と高校時代の演じ分けをなさっていたのですが、これがもう本当に凄かった。声の音程はほぼ変わらず、本当に『年齢だけ違う』のをバッチリ表現されています。すげ。花子は私の推し。てか樺花が推し…!伝わる人いますかね?) 

 

 実際、慎太郎が普段喋っている時の声は、若い動的エネルギー感やハツラツ感に満ち溢れており、『近所の元気な兄ちゃん感』を感じさせる事もしばしば。少なくとも脱力感・無力感は一切ありません。

 例えるならば、『夏の日光』でしょうか。

 夏の日の光は位置的にも高く、特有の高いエネルギー感と、しっかり主張する若い輝きは、慎太郎の声の特徴やイメージにぴったりです。

 彼が歌い始めると、その声はより一層、きらめきとエネルギーを増し始めます。

 それは、夏の木漏れ日の優しくも強いきらめきや、夏の海に反射した日光の眩しく細かいきらめきにも似ています。

 慎太郎パートになった途端に現れる、キラッとした光を放つあの瞬間は、聴衆を『あっ!』と目を見開くような感覚にさせます。あの現象は彼以外には作り出せぬ代物でしょう。

(You & Iとかキラッキラですよね。)

 

 ファンの間で『慎太郎の声はアイドル感がある』と言われる所以の1つは、この点にあると自分は考えています。

 

 慎太郎の声は、文字通り『キラキラのチャームポイント』ってわけです!最高やんけ。

 

 

②音楽的運動神経

 この話は長くなりそうなので、先に結論を申し上げましょう。

 

 森本慎太郎は音楽的に野生です。

 この場合の『野生』とは、『野生的感覚を強く持っている』という意味になります。

 

 特に分かりやすい、彼の『リズム感』と『ダンス』に焦点を当てて考察して行きます。

 

リズム感

 まずは、彼のリズム感について。

 『リズム感とはそもそも何ぞや?』という話なんですが…。それもそのはず、『リズム感』と一口に言っても、その要素は山程あります。

 森本慎太郎はそれらの中でも、音楽の中にあるリズムへの『感度』がめちゃくちゃ良いです。『リズムを聴き取る耳が良い』又は『音との距離感が近い』とも言えます。

 NEW ERAでのノノノ無双(『I wanna〜no...』の部分)は、高いリズム感度を持つが故に為せる超技術です。素人がやったら『ののの』とただ言っているだけに聞こえてしまいます。慎太郎が歌うからカッコ良くなる、彼の専売特許パートと言っても良いでしょう。

 

 

ダンス

 次に、ダンスについて。

(いよいよダンスまで語り始めましたね…大勢の前で踊るなんて運動会くらいしかやった事ねぇ奴が筆者である事を忘れずに読んで欲しい…!)

 

 そもそも、ダンスには大きく分けて『音楽派』と『美術派』の2種類があると自分は思ってましてですね…。

 

 音楽派は、聴覚に訴える踊り方です。

 そのダンスを見ると、音量の大小は様々ですが、音が聞こえてくる又は見える感覚があります。(これって私だけか?!)

 こちらの方々はダンスが音楽寄り。自分はやっぱり音楽が好きな人間なので、この手の方を見つけると嬉しくて秒で覚えます。

(余談ですが、音楽派の最高峰はやはりマイケルジャクソン一択。全く詳しくないけど以前ちらりと動画を見て、この人は身体と音との間に繋ぎ目が無いんだなぁと思いました。私でもどエラい神様だと分かる。そら崇拝もされますわ。)

(更に余談ですが、BTSのJ-HOPEさん。うーわこの人はめっちゃ音が聞こえると思った。BTSは妹に良いぞと言われつつスルーしてたんですが、Dynamiteでテレビに出まくっている時に初めてちゃんと観て即覚えたし音源買ったよね〜Retro Remixが好き。これまた全然詳しくないけども、アルバムも何個か買いました。)

(重ねて余談なんですが、SnowManの岩本照くんはこの観点からして、素人目でもすんごいです。Crazy F-R-E-S-H Beatの映像欲しさにD.D.初回盤買った。スノ担じゃない上、ひーくんについてこれ以上語り始めると本気でブログ1本分くらいになりそうなので我慢します…。)

 

 一方、美術派は視覚に訴える踊り方です。

 踊り手の身体そのものが美しく見えるようなダンス。こちらは美術寄り。芸術作品と言った方が近いかもしれん。巷で『魅せ方が上手い』と言われるのは大抵この人達だと思います。

 分かりやすい例を挙げるならば、登美丘高校ダンス部のバブリーダンスですね。完全なる視覚美。あと、これは芸術作品だな!と思ったのはSnowManさっくんとTravisJapan。トラジャなんてグループでそれをやっちゃうから凄い。Happy Groovyのダンス動画何回も観てます。

 

 さて、今回の主役である慎太郎ですが、彼はほぼ間違いなく『音楽派』でしょう。

 彼のダンスは非常にナチュラルです。とにかく自然で、無理をしている感じが一切ありません。

(ソロ曲のI'm In Loveのパフォーマンスを初めて観た時、『この人はなんて自然に踊るんだ!』と心底驚いた。)

 慎太郎が踊る時には、音に身を任せている様にも見えます。彼の身体能力の高さがそれを助長し、より自由なダンスになる。おそらく彼は、頭の中のイメージ通りに身体の動かすのが相当上手いはずです。

(高校生の時に隣の席だった人が、『運動神経とは頭にあるイメージ通りに身体を動かす能力の事だ』と言っていて、確かに!と思った体力測定前の思い出。私の結果は散々だったけれど。笑)

 更に、慎太郎は『この振付だからこう動く』というよりも『音楽を聴いて、こう動きたいと思いつつ動いた結果、こんな風に踊った事になっていた』みたいになっていそうな節が多々あります。その音が流れたから、ごく自然にその動きをしている、という感じで。

 だから、慎太郎のダンスは『振付を入れられている感』がかなり薄い。

 おそらく彼は、神経を信号が伝わる速度が一般的な相場よりもかなり速いのではないか、と自分は予想しています。脳でこう動きたいと思ったらもう動いている。そのタイムラグがほぼゼロに近いんですね。

(多分、反射神経も相当良いと思う。)

 

 

それらによって出来上がる音楽的運動神経

 森本慎太郎の本当の凄さは、ここからです。

 彼の場合、ここまで話した『リズム感度の良さ』と『ダンスの上手さ』は、協力関係にあると思われます。

 現時点での彼は、『ダンスが上手いからリズム感度が良い』とか『リズム感度が良いからダンスが上手い』とかの次元ではなく、それらが完全に両輪で回っているのです。だから凄い。

 加えて、上記の様なリズム感とダンス力は、どちらも『感覚』に依存する割合が大きいです。

 

 これらの特徴は、『音楽的運動神経が良い』と表現する事が出来ます。

 以前、樹の音楽的素晴らしさを大考察する記事で『樹は音楽的学力が常軌を逸脱している』といった内容を書きましたが、慎太郎の場合は学力というよりも『運動神経』の方がしっくり来る気がします。

(以前何処かで、椎名林檎女史が『音楽の才能というのは一種の運動神経に近い』的な事を仰っていたのも見かけた事がある。)

 

田中樹の音楽的素晴らしさをを大考察した前述の記事はこちら↓ご興味あれば是非どうぞ。

shea-butter-six.hatenablog.com

 

 

 慎太郎の音楽的運動神経を目撃したい方は、ストチューブに上がっているダンス動画を見て頂くのが1番手っ取り早いです。

(特にNAVIGATORのダンス動画は、慎太郎の持つ音楽的運動神経の良さが遺憾無く発揮されています。間奏部分は激烈に凄いです。サラッと踊ってしまうあのスマートさとナチュラルさを是非体感して頂きたい。必見。)

 

 このレベルになり始めると、理論なんかじゃ追いつけなくなってくるんですよ。

 多分、何でそんなにナチュラルに踊れるの?と聞かれても、慎太郎は『踊りたい様に踊っているから。』と答えそうな気がする。もしくは『俺も分からん。』って言うかもしれない。

 きっと、それが彼の普通で、デフォなんじゃないかな、と。(…恐ろしい子!)

 

 これはもう野生動物レベルの感覚です。

 野生的感覚を持ってる人に『何で?』と質問したとて、その人は『出来るもんは出来る』としか言えないですよね。

 

 鉄腕DASHのシンタローの行動やイメージから『慎ちゃん野生児ww』等と言われているのをしょっちゅう目にしますが、自分に言わせりゃ音楽的にも十分『慎ちゃんは野生児』です。

 

 一体どんな生活をしていたらあの高度な音楽的運動神経は身につくのでしょうか?

 凄い野生児ですよ、森本慎太郎は。

 

 

SixTONESにおける音楽的ポジション

 ここからは①と②の内容を踏まえて、それらの強みをSixTONESというグループ還元する際の話です。

 

 まず何より、慎太郎の声が加わる事で、グループの持つ声の成分分布をかなり広げる事が可能になります。

 位置的に高い上の層の声成分を慎太郎が補完増強。きらめきも足され、声としての守備範囲が広がる。それは即ち、『SixTONESの音楽への攻撃範囲が広がる』という事です。

 

 更に、声の成分の分布が広くなる事は、音楽に大衆性をもたらします。

(偏りが少なく幅広い方が聴きやすくなる。)

 多くの日本のアイドルが複数人所属のグループで、且つサビをユニゾンで歌う理由の1つはそこにあります。色々な声を集めて混ぜて分布を広げる事で、その音楽を誰にとっても『聴きやすい』ものにする事が出来るから。

 ここ最近、サビをユニゾンで歌う事に対するトレンドは変わってきていますが、それでもメンバーの声の分布にバラつきがある事は強みです。1曲通して様々な音を聴かせられるわけですからね。これも『誰でも誰かの声は刺さる』という大衆性を出す戦略です。

 

 大衆性は、アイドル性とも言い換えられます。

 例えば、時代の先頭を走っていたSMAPは、大衆に支持された結果、その時代の『王道のアイドル』と呼ばれています。

 大して詳しくはありませんが(n回目)、元来SMAPは『アイドルらしい』とは言われていなかったんじゃなかろうか、と思っていて。

 その実、子供の頃の自分は、SMAPを『アイドルグループ』というよりも『面白集団』と思っていました。中居くんの良い塩梅の自虐ネタとか、慎吾くんのコントとか。吾郎ちゃんに至っては、本や映画が好きなマイペース紳士というイメージが今でも強いです。

 しかし、SMAPは間違いなくトップになったアイドルだと世間に思われているわけで、それは彼等のアイドル性即ち大衆性がそうさせたのだと考えられます。

 

 この『大衆性=アイドル性』を、慎太郎の声はSixTONESの歌声にもたらしているのです。

 

  更に、慎太郎の持つ素晴らしい音楽的運動神経によるダンスは、SixTONESの音楽における視覚方面を大きく担っています。

 音楽派のダンスは、音楽を可視化します。

 つまり、慎太郎のダンスや動きによって、SixTONESの音楽は『聴く』のみならず『観る』事が出来る様になるわけです。

 

 実は、これもまた、SixTONESの音楽の大衆性を増幅させる要因になります。

 世の中の人間は皆、多少の差はあれど『より優位な五感』を持っており、『音楽を聴くよりも観た方が頭に入るし楽しめる』という人々も当然一定数います。

 したがって、『観る音楽』を提供出来るならば、『視覚優位の人を含む、より多くの人々にSixTONESの音楽が刺さりやすい』状況を作れる。そうやって、大衆を味方につけやすくする事が可能になるんですね。

 

 『大衆性』って、半端ない超強力武器だと思いませんか。

 森本慎太郎は、その超強力武器をSixTONESに持ち込んだ。

 

 最強かよ!向かう所敵なし!!

 

 

あとがき

 以上から分かるのは、『森本慎太郎の存在がSixTONESの可動域を広げている』ということ。

 

 きっと、慎太郎がいるから挑戦出来たり、より仕上がりが良くなったりした曲が沢山あるんじゃないかな、と思います。

 

 森本慎太郎は愛される人です。

 

 彼が居ることで、SixTONESはもっと愛される存在になるはず。

 音楽的にも、本質的にも。

 

 愛すべき存在が、常に温かな愛に包まれ、それに守られていて欲しいと強く願っています。

 

 愛される存在にして、愛すべき存在の森本慎太郎に、心からの敬意と感謝と愛を込めて。

 

 ここまで読んで下さった猛者の貴方にも、心より感謝申し上げます。

 

 彼と彼を大好きな人が、それぞれにとって幸せでありますように。

猛者へ置き手紙を書きました。

 こんにちは。これを読み始めて頂きありがとうございます。

 

 今回はこれまでと少々(いやかなり)趣が違うのですが、読み進めてみたいなと感じたらそのまま読んで頂けると良いかと思います。

 

 

 

まえがき

 最初に言っておかねばならぬ事が1つ。

 この記事では、いつもの記事で行っているような『SixTONESについての考察』は一切行いません。何ならSixTONESの話すらしません。

 考察系の記事を読みたいお気持ちの方は、過去の記事を楽しんで頂く又はいずれアップするかもしれない記事を待って頂くことになります。どうぞ宜しくお願いします。

(考察系の記事はタイトルの頭に【云々】みたいなのを付ける様にしていますので、それで判断して頂けたら良いかと思います。今後気が変わった時はすみません。また、考察系記事は新しい記事が出来上がり次第リンクをツイートするようにしています。どうぞお好みで。)

 

《筆者のTwitterアカウントについて》

 記事のリンクはここに貼って流しています。

 尚、自分はSixTONES関連のRTいいねを息する様に押すタイプです。また、ストちゃん可愛い〜的な脳汁垂れたツイートや、カレー食いたいとかの無益の極みツイートをする事もあります。もしフォローするか迷ったらそこは注意かも。ついでに白状しておきます。笑笑

 

↓そんな筆者のTwitterアカウントはこちら↓

 

 先日、自分はふと思い立ちました。

 『このブログそのものに興味を持っている』又は『筆者の文章に興味を持っている』といった具合の物好き即ち『猛者』の方へ向けての手紙を書こう!

 うーん、でもただの手紙だと面白くないな。てかそもそもここブログだし。むぅ…。

 そこで、送る事は出来ない故にその手紙をここに置いておく、つまりは『置き手紙』として書こうかなと閃きました。

 

 では以下より、置き手紙になります。

 尚、置き手紙の文章はほとんど敬語ではありませんのでご了承下さい。遠方に住むそこそこ親しい友人に書く様なつもりで書いています。

 

 

貴方への置き手紙

 今これが読まれているということは、貴方はきっと私のブログをそこそこ御贔屓にしてくれている人なのでしょう。

(1回こういうのをやってみたかった。笑)

 

 本当にありがとう。

 

 私は、記事の中身以外にも興味を持ちつつこの『磨くは原石、精製は油脂』を読んでくれる人が現れる等とは思ってもみなかったので、貴方の存在にはかなり驚いています。

 

 ブログを始めた事で、まだ知らなかった事を沢山知る事が出来ました。

 

 これもそうやって知った事の1つなんだけど、はてなブログには『読者登録』なる機能と『スター』なる機能があるらしく、一応何となーく分かったつもりではいる。怪しいけど。

(読者登録がTwitterで言う所の『フォロー』で、スターが『いいね』なんだってことにしている)

 もし貴方がこの読者登録やスターを押してくれているのならば、それに私はまずお礼を言わねばならないと思う。ありがとう。

 更に、もし貴方がこのブログをきっかけにして私のTwitterをフォローしてくれたのならば、同様にお礼を言わないといけない。ありがとう。

 無論上記のフォロー的な事柄をやっていなくても、貴方が私を贔屓してくれていることは分かっているから安心してね。(身勝手で都合の良い考え方や。笑笑)

 

 重ね重ね、どうもありがとう。

 

 さて、私がこの置き手紙を書いた理由はいくつかあって、その1つである『猛者にお礼申し上げたい』は無事遂行完了しました。

 

 その次に、今後のこのブログについての話をしておきます。

 

 第一に、私はこのブログにおいて、

 書ける時に書きたい事を書ける分だけ書く。

 …というのを念頭に置いてやって行くつもりです。もっと言えば、私は自分の文章発散欲の為に書く。(そんな大層なものでもないけれど)

 それは即ち、『私は好きなペースで好きな事を書いていくよ』という意味です。

 

 まず記事を出して行くペースについては、本当に純度100%の気まぐれでやります。

 言うてブログを始めてからまだ2週間も経っていなくて、この先の私がどういう気分になるのかはとんと見当がつかないけれど、おそらく力尽きる時が来ると思う。爆笑

 現在このブログはそこそこハイペース更新だと思うんだけど、実際の所どうなんだろうか?

 今まで『ブログ』というカテゴリーのコンテンツは単発摂取しかしたことがないもので、ブログ界における相場みたいなものが全く分からないから何とも言えず…。

 まあとにかく、そう遠くない未来にこのブログの更新がぱったり止む可能性があるよって事を言っておきたかったんです。

(めっちゃ続くかもしれんけど。私からするとそれはそれで面白い。)

 今は始めたばかりで書きたいことが沢山あるし、書きたい気持ちがモリモリ湧いているからそのままモリモリなペースで新しい記事を出しているけれども、どっかでそいつらを出し尽くす時が来そうだなーと思って。根拠は無いけどなんとなく。

 だから貴方には一応事前に伝えておきます。そうなった時は、ああモリモリ感を失ったんだなぁと思っておいてくれると助かる。笑

 

 次に記事の内容についてなんだけれど、これも基本的には書きたい事を書きます。言い換えると、書きたい事しか書かないってことです。

 こちら側からは当然の様にブログや各記事に対する数字的リアクションがそれなりに可視化されていて、『いつ上げた記事が多く見られているか』とか『どんなテーマの記事が人気か』とかがよく分かる。

 ちょっと尖ったことを言うと、数値化されずとも『誰の記事が読まれそうか』とか『この人の何を褒めたら喜ばれそうか』とかも大方察しはついていて。

 ただ、現時点では少なくとも、それらは積極的に無視して行く気でいます。

 何故なら、私は他でもない自分自身の為に書いているから。

 このブログの場合、1番人気且つ沢山読まれるのは音楽的な話をする記事なのだけれども、私は演出や衣装や舞台セットを見て考察をすることも大好きだし、良い作品に関して理路整然とはしていないかもしれないけど感情をそのまんま転写して書くのも好きだし、こうして貴方へ向けて置き手紙を書くようなことも好きで。

 だから、書きたい様に書きます。

 一応語弊がない様に書いておくけど、音楽的な考察や声の考察をするのも言わずもがな同様に好きです。(てか好きじゃなかったらそもそも書いてないし。)

 結局、1番スラスラ書けるのはその手の記事だし、今の所あれ書きたいな〜と思っている事は大抵音楽と声の話なんやけどね。なんてったって声フェチだから。ついついそっち系の考察をしてしまいがちなんよ。SixTONESに限らずピンと来る声を聞いたらすぐ考えてしまうし。これはしゃあない。フェチだもの。

 『んな事いちいち宣言せんでも何となくやんわりやっとけば良いのに。今後読んでくれるかもしれない相手にちょっとは媚びとけって。』とも思うんだけど笑、まぁ何というか、せめてこのブログだけでも本当に思った事しか言わないようにしようかな、と。言いたい事も言えないこんな世の中じゃPOISON!

 

 最後に、ブログや各記事に対して頂くリアクションについて。

 もし貴方が私の書いた記事にいつもリアクションをしてくれているならば、本当に本当にありがとう。とても嬉しい気持ちで見ています。

 更に、記事への感想とかをツイートしてくれたりリプしてくれたりしているとしたら、これまためちゃくちゃありがとう。

 私が自分の記事への感想を書いてくれる貴方にどうしても伝えたいのが、その感想を読むと私は爆裂に嬉しくなるってことなんよ。

 もし貴方が気が向いたら、また感想を教えてもらえると嬉しいです。リプでも引用RTでもDMでも。送ってくれたのを眺めると異様に嬉しくってさ。1人にまにましちゃう。ああ本当に読んでくれている人がいるんだ!ってひしひしと実感出来る気がして。

 これはただの気持ち悪い話なんだけど、普通にRTしてくれた人のアカウントを時間ある時に見に行っちゃうんよね。もしかしたら感想書いてあるかもしれん!って思ってさ…。書いてあったらむほほほってなるよね〜嬉しい〜!!!

 

 貴方の顔は知らないけれど、貴方の優しさは十分伝わっています。ありがとう。

 

 気がついたら随分と長くなってしまいましたね。読んでくれてどうもありがとう。後の方になるに連れて言いたい放題になっていた事は見逃して下さい。

 末筆ながら、こんなご時世ですし、くれぐれもご自愛下さい。

 

             シアバターより

自戒

 そもそもブログなるものを始めたのは、勢い任せだったんです。

 

 1/7に観た生配信ライブの後、感想をツイートしようと思ってスマホのメモに一旦それを書き起こし始めた所、文字数が8000文字を超えたことがきっかけでした。

 その8000字には公演の全曲分の感想は勿論、後に記事にしたきょもの発音の件や《ってあなた》の衣装の件のさわりの内容も含まれており、とてもツイート出来る分量ではねぇなというのは明らかで。

 ただ、この全曲分の感想だけでも気が向いた方に読んでもらえそうな場所に置いておきたいかもしれん。この8000字をどうする?

 そうだ、それならこの際、無料のブログを開設して、そこに書きたい事を書ける時に書きたいだけ書いたものを放り込んでおけば良いやん。気が向いた方が2、3人読んでくれたら万々歳。無料クラウドの感覚で居ればいいや。そのクラウドの中身がいつでも誰でも見れるってだけの話やし。

 

 そんなわけで、『誰でも使って良い鍵なしのクラウドを1つ使い始める』程度の感覚でブログのアカウントを作成。

 何となく必要そうな最低限の設定をしてから例の8000文字を多少読みやすいように整えて、1/9に日付が変わった頃におずおずそいつをネットの海に放り込みました。

 

 元々よりその8000字をどうにかしてやりたいという欲を満たす為の100%自己満足による投稿でした。

 しっかり満足した私は、そのままの流れでしばらく読めていなかったJohnny's webにある彼等の個人ブログを読み始めたというわけです。

 

 貴方が察しの良い人だとするともうお気付きかもしれませんね。きっとその通り。

 

 私はこーちブログの生配信について言及された該当部分を読み、しばらく1人で考えていました。これはどうしたもんかな。

 どんなに他で波風が立っている時でも常に穏やかさを保っていた(意図的にそういうTLを自ら作っていた)はずだった私のTL画面にもとうとう関連ツイートがちらほらと流れ始め、またむむむ…と考える。どうしたものか。

 考え始めてそう長くない時間が経った頃、頭の中でぷつりと音がしました。

 

 そこからは怒涛でした。

 やり始めりゃあとは知らん。

 このアイドルが音楽的にも素晴らしいってことを、少なくとも私はめちゃくちゃ素晴らしいと思ってるってことを分かりやがれ。

 

 彼の音楽的素晴らしさを息つく間も無く一心不乱にフリック入力で打ち込みました。あれに書いたことは全て、かれこれ半年弱は考え続けていた内容だったので、身体の中にあるそれをただひたすら文章化しているという感覚でした。

 初めて知った見出し・目次追加・ツイートの貼り付け等の機能(有識者からすれば基礎中の基礎だろうが)を使って、『見にくい事はない』くらいまでには持って行こう。

 誤字脱字は無いかちゃんとチェックしよう。難しく書かずに、音楽の事を知らなくてもある程度は読めるようにしよう。

 そして何よりも強く思っていたこと。

 億が一、何かの間違いで本人がこいつを読んだとしても、絶対に彼が傷つかない内容、言葉選びにしよう。絶対は作り出せなくてもそれに近付ける作業をしよう。少なくとも自分が考えられる配慮は全部しよう。

 

 

 よし、これで良いだろう。悪くないはず。

 やっとこさスマホから顔を上げた時には、外はすっかり明るくなっていました。

 

 この感覚を忘れてはいかんな、と切実に思っています。

 

 あの記事をきっかけに、私のブログを読んで下さる方がドカンと増えて、Twitterのフォロワーが数日間で2〜3倍になって。

(フォロワー数だけ見れば大した事ないのかもしれないけど、私からすれば増加量が半端じゃなかった。何なら今のフォロワー数も何でこんなに多いんだ?と思っている。)

 それはそれは有難い話で、そんな読んで下さった方々からのリアクションにばっちり嬉しくなった私は、これまたばっちり調子に乗って他の記事も書き始め、今に至ります。

 

 あの記事を書いていた時にはこんな事になるとは夢にも思っていなかったし、そもそもそんなに読まれるつもりで書いていなかった。

 ただ、『こいつを本人が読んでしまっても決して不快に思わすまい』というあの執念にも近い気持ちを持って書いていた事は確かで。

(書き終えた後も、その記事をネットの海に放るかどうかしばらく悩みました。タイミングが悪いんじゃないかとか、そもそもこんな事を顔の見えないファンに考察される事自体嫌にならないだろうかとか。開き直って上げたけど。笑)

 

 この執念に似た形をした気持ちは、何が何でも持ち続けねばならぬと自分に言い聞かせています。

 

 そういった『自戒』です。